教会のプロフィール

>教会について>教会のプロフィール

聖アンデレ教会は、日本聖公会に属する伝統的なキリスト教会です。また、聖アンデレ教会は日本聖公会東京教区の主教座聖堂でもあります。

聖公会とは

 聖公会とは、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的な(One holy catholic and apostlic)教会である」という意味です。これは、伝統的キリスト教会が奉じる信仰告白「使徒信経」「ニケア信経」からとられたもので、近代日本にキリストがもたらされる前に英語から中国語に訳された言葉から、そのまま日本に移入されたものです。英語ではアングリカン・コミュニオン (Anglican Communion)と言います。

 ローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会(ルター派やカルヴァン派など)との中道(ヴィア・メディア)として、自らを位置づけています。その歴史は、イギリスが宗教改革によってローマ・カトリック教会の宗教的・政治的支配を脱し、その教会の主教座をペテロ以降の正当な使徒継承者と認める英国国教会(Church of England)の成立が、その起源になります。

 ヘンリー8世*1とクランマー*2によるイギリスの宗教改革は、こうした実質的独立を宣言する1534年の首長令(国王至上法)から始まり、39年の英語訳聖書(クランマーの「大聖書」)、そして49年の第一祈祷書(現在の祈祷書の原型)の制定へと進みましたが、そこには14世紀のウィクリフによるローマ教皇庁批判や聖書母国語(英語)翻訳など改革運動の源流があり、また一方では、当時のヨーロッパを取り巻く政治的・外交的な要素が色濃く反映していました。そしてそれらは、イギリス国内にとどまらず、その後のキリスト教会の歴史に大きな影響を与えてきました。

 ※イギリスの宗教改革については、それだけで何冊かの本になるくらいですので、ここでは詳しくは触れられません。このホームページの「キリスト教について」で簡単な解説と、理解を深めるための書籍や資料のご紹介をしていますので、そちらをご覧下さい。

 このようにして成立した英国国教会は、他のヨーロッパ諸国によるそれと同様、植民地運動と並行して世界中に広がります。アメリカ大陸、インド、アフリカ、そしてアジアへ。しかし、そこで建てられた教会は、現地の言語や習俗をも取り入れながら、「母国語による聖書、母国語による礼拝」という理念もあって「英国国教会の教会」ではなく、例えば「日本聖公会(Anglican Church of Japan)」というように、それぞれの地域や国名を冠した教会になります。アメリカ合衆国の場合は、イギリスからの政治的独立問題を背景に、スコットランド教会から主教を迎えたためEpiscopal Church(日本語では米国聖公会と言い慣わしています)という名称を用いています。

 このようにして、同じ信仰を持ち、カンタベリーとの交わりを保つ様々な国々の教会を、総体として(全)聖公会(アングリカン・コミュニオン)と呼びます。現在、約7千万人の信徒を擁する、世界で3番目に大きな、伝統的キリスト教会です。

*1 ヘンリー8世
*2 クランマー

日本聖公会について

 江戸末期の1859年、C・M・ウィリアムス*3とL・リギンズの二人の米国聖公会宣教師が、長崎に来日しました。これが日本での聖公会によるキリスト教宣教の第一歩でした。前年締結された日米修好通商条約や日英修好通商条約によって、日本国内で外国人の礼拝の権利が保障されたことが契機になっています。さらに明治維新を経て、73年(明治6年)にはキリスト教禁制の高札が撤廃され、イギリスやアメリカ、カナダから多数の宣教師が派遣されました。彼らは宣教と同時に教育などを通して日本の近代化に寄与しながら、徐々にキリスト教を浸透させ、教会や信徒数も徐々に増えていきます。聖公会の教会も76年には最初の教会が開設されるなど、活発に活動を続けました。こうして日本聖公会は87年に第一回総会を開催し、組織として成立します。また、徐々に日本人司祭も増え、 1923年には日本人で最初の主教も誕生しています。

 1939年に成立した宗教団体法により、多くの教会が日本基督教団に合同しましたが、聖公会では単立教会として困難な時代を切り抜けた教会も数多くありました。終戦後の45年12月、日本聖公会は総会を開催して組織再建を決議し、現在では北海道、東北、北関東、東京、横浜、中部、京都、大阪、神戸、九州、沖縄の11教区に約350の教会、約5万人の信徒がいます。

 教育や社会福祉、医療などの活動でも先駆的な働きをしており、例えば教育機関では、立教学院(立教大学など)、立教女学院、香蘭女学校、聖路加看護大学、プール学院、桃山学院、平安女学院、松陰女子学院、柳城学院、八代学院、聖ステパノ学園のほか、全国各地に数多くの幼稚園や保育園を経営しています。また、滝乃川学園やエリザベス・サンダース・ホームをはじめとした障害者福祉施設、児童福祉施設、高齢者福祉施設など、数多くの社会福祉事業にも寄与しています。医療関係では聖路加国際病院や九十九里ホーム、聖バルナバ病院などが、聖公会の働きによって建てられたものです。

*3 ウィリアムズ主教

聖アンデレ教会の歴史

【I】A.C.ショウによる創立

 1873年(明治6年)9月、2人の英国人宣教師がSPG(英国福音伝道会)から日本に派遣されました。キリスト教禁令の高札が撤去されて半年余り後のことです。その一人がアレクサンダー・クロフト・ショウ*4とウィリアム・ライトです。二人は福沢諭吉の家に住みながら、築地に英語塾を開いたり(立教学院の前身)、翌75年からは霊南坂の陽泉寺で在日英国人のための礼拝や、日本人への本格的な伝道を開始します。そしてほどなく島田弟丸など日本人にも洗礼を授けます。翌76年には、聖アンデレ教会の前身である聖パウロ教会を三田松本町に開設します。

 一方、ショウは公使館付き牧師の公職を続けながら、来日して半年余り後、福沢の子どもたちの家庭教師として招かれ、福沢やその家族と親交を深めていきます。福沢はショウのため自宅の隣に西洋館を建て、慶応義塾で塾生に対するキリスト教教育の機会も与えました。そこからも3名の受洗者がありましたが、その一人は後に「憲政の神様」と言われた尾崎行雄でした。

 77 年、ショウは諭吉の援助もあって、現在この教会の建つ芝栄町(芝公園3丁目)に敷地を購入し、自宅を建設します。そして2年後の1879年6月4日、レンガ造りの聖堂(礼拝堂)がそこに完成します*5。これが聖アンデレ教会の歴史の第一歩です。当初は「公使館の教会」とも呼ばれ、東京在住の英国人のための英語による礼拝が多かったようですが、日本人のための日本語の礼拝も行われました。

 ショウは聖アンデレ教会の創立から亡くなるまでの29年間、牧師を務め、日本におけるキリスト教宣教や、女子教育発展にも尽力しました。また、日本政府が諸外国と結んでいた不平等条約の改正にも熱心に協力しています。このように日本を愛し、福沢をはじめ多くの日本人からも愛されながら、1902年、日本でその生涯を終えます。その墓は、東京青山の聖アンデレ教会墓地にあります。また、余談ですが、ショウは「避暑地軽井沢の父」としても有名で、毎夏、軽井沢では「ショウ記念祭」が行われています。

【II】発展、そして苦難の時代へ

 ショウの活躍もあって、次第に日本人の会衆(信徒)も増えていきました。1886年、イギリスから伝道主教ビカステスが来日。87年、様々な宣教団体や宣教師によって建てられた日本国内の諸教会が、日本聖公会として組織化されます。聖アンデレ教会は、その中心であったビカステス主教の「主教座教会」でもありました。

 福沢の支援もあって建てられた初代礼拝堂は、残念ながら1894年の震災で倒壊してしましたが、翌年にはすぐに木造の聖堂が建てられます(小聖堂)*6・7。そして、ショウの亡くなった1902年、今井寿道*16が牧師として就任。同じ年、念願の日本人会衆専用の聖堂*8・9が完成し、戦火により1944年に焼失するまで大聖堂として長く信徒に親しまれました。

 今井牧師は2年で神学校に転出したため、1904年に山田助次郎司祭*17が牧師に就任します。山田は、伝道集会や慈善活動、教会内組織の整備、日曜学校や聖書研究会など、教会発展のために33年の長きにわたり働き、信徒数は400名を超えるまでなります。信徒による伝道活動も、活発でした。

 山田牧師就眠後の1938年、野瀬秀敏*18が牧師に就任しますが、31年の満州事変と翌年の国連脱退、36年の2.26事件と翌年の大本営設置と、日本は戦争と軍国主義に邁進する時代になってしまいました。その年、国家総動員法が発令され、翌年には宗教団体法が施行されます。一般の市民だけでなく、キリスト教会にとっても困難な時代が続きました。41年、治安維持法の改正。教会合同問題や戦争の激化に聖アンデレ教会も翻弄されますが、42年「芝聖公教会」と改称して、宗教団体法による教会合同命令に与せず、単立教会として伝統と信仰を守る姿勢を堅持しました。

 44年には空襲で聖堂が焼失。45年には佐々木東京教区主教や野瀬牧師が憲兵隊に拘留されてしまいますが、敗戦を前に無事釈放され、戦後の教会復興に力を尽くします。

*4 ショウ師
*5 初代聖堂
*6 小聖堂1
*7 小聖堂2
*8 大聖堂1
*9 大聖堂2

【III】終戦から現在まで

敗戦の8月、それまで強制移転や信徒の自宅で礼拝を守っていましたが、教会はようやく元の場所に帰ります。野瀬を中心に信徒や聖職が、復興のために惜しみなく働きました。スタートは焼け跡に建てた信徒の物置を利用した15畳敷きのバラック礼拝堂*10。世の中の落ち着きから信徒数も徐々に回復した48年には、水交社から寄贈された車庫を改造した畳敷の仮礼拝堂兼集会所*11が整備されました。

そして翌年、海外からの復興援助金や会員の献金により、待望の聖堂が、戦前、英国人会衆から寄贈された小聖堂の跡地に建設され、50年には聖別式も行われました。牧師館も新聖堂*12・13・14とともに建設されました。この礼拝堂は一部の増改築を経て、96年元旦まで使用されました。

礼拝堂は当初、英国人会衆とシェアしながら、用いていましたが52年、英国聖公会から「敷地内に英語礼拝のための聖堂を建てたい」という申し入れがあり、新たな礼拝堂を建設することになります。56年にアントニン・レイモンドの設計による木造のシンプルな礼拝堂が完成。これが現在の聖オルバン教会です。また、64年には東京教区事務所、83年には現在のアンデレホール*15が完成し、96年には現在の聖堂とショウホールが完成し、今日に至っています。

組織としての聖アンデレ教会に目を転じますと、宗教団体法により法的には消滅していた日本聖公会は、戦後すぐ再建を確認します。聖アンデレ教会も元の名称に戻りました。そして51年に「宗教法人 日本聖公会東京教区」が設立され、翌年には「宗教法人日本聖公会」が設立されます。一方、単立教会として継続していた聖アンデレ教会は、53年「宗教法人 日本聖公会聖アンデレ教会」として認定されますが、86年に、東京教区と合併することになります。

戦後の牧師は以下の通りです。教会の再建に尽くした野瀬は54年、東京教区主教に就任し、細貝岩夫*19に交代、翌年には東北教区に転出した細貝に代わり今井直道司祭*20が着任。続いて69年に今井烝治司祭*21、86年に高畠靖司祭*22、95年に竹内謙太郎司祭*23と続き、2002年に大畑喜道司祭*24、2012年には笹森田鶴司祭*25、2019年下条裕章司祭*26 が牧師として就任しました。

*16 今井寿道司祭
*19 細貝岩夫司祭
*22 高畠靖司祭
*25 笹森田鶴司祭
*17 山田助次郎司祭
*20 今井直道司祭
*23 竹内謙太郎司祭
*26 下条裕章司祭
*18 野瀬秀敏主教
*21 今井烝治司祭
*24 大畑喜道司祭
*10 バラック聖堂と野瀬牧師
*11 仮礼拝堂
*12 先代聖堂1
*13 先代聖堂2
*14 改築後の先代聖
*15 アンデレホール

聖アンデレ教会は日本聖公会東京教区に属する教会であり、またその聖堂は、東京教区主教座聖堂でもあります。東京教区には現在33の教会がありますが、その教区の責任者はフランシスコ・ザビエル高橋宏幸主教です。

聖アンデレ教会には約1440名の信徒が在籍し、フランシス下条裕章司祭と共に、礼拝を中心とした信仰生活を送るだけでなく、広く社会に対して様々な活動を行っています。

例えば、毎年10月に行われるバザー*27、初夏の「教会にジャズが来た!」*28などのイベントにおける収益はすべて、様々なチャリティのために捧げられます。難病治療のために状況する家族を支援する「ぶどうの家」、アジアの青年たちに農業指導を行う「アジア学院」、児童福祉施設の「エリザベス・サンダース・ホーム」などが、主な奉献先です。詳しくは、「活動レポート」のページをご覧下さい。

*27 バザー
*28 教会にジャズが来た

聖アンデレ教会の現在